石川工場は、1897年(明治30年)に現在の東京都港区で産声を上げ、以来現在に至るまでオリジナル自動乳鉢である石川式撹拌擂潰機(カクハンライカイ機)の製造販売を通じて製造業へ貢献して参りました。
「撹拌擂潰(カクハンライカイ)」とは、噛み砕けば「まぜる」こと。現社長で6代目になる石川工場の歴史は、二度の戦禍を耐え抜いた、まさにまぜる会社の物語なのです。このページでは、皆さんにオリジナル自動乳鉢(石川式撹拌擂潰機)技術や石川工場の歴史などを「まぜる物語」として紹介します。
石川式撹拌擂潰機の「撹拌擂潰(カクハンライカイ)」という言葉、皆さんにとっては、あまり聞き慣れない言葉かもしれません。
撹拌は「かき混ぜること」を、擂潰は「すり潰すこと」をそれぞれ表しています。したがって撹拌擂潰は、かき混ぜと、すり潰しを同時に行うことを意味します。「まぜる物語」の「まぜる」が指しているのは、石川工場独自の「撹拌擂潰」技術でもあるのです。
オリジナル自動乳鉢である石川式撹拌擂潰機の処理対象は粉体、液体、ペースト、スラリーと様々です。細かい粒子をすり潰しながら更に細かくし、同時にその粒子を液体の中に満遍なく分散させることが、石川式撹拌擂潰機の仕事です。
この過程は、製造工程全体から見れば目立ちにくいかもしれません。しかし、食品、化学品、薬品や高機能部品など、さまざまな産業の製造工程の材料を作る工程(いわゆる前工程)で必要なものです。それだけでなく、製造する製品の品質を決定づける、重要な工程を担う装置です。石川式撹拌擂潰機は、縁の下であらゆる製造現場を支え続けています。
1897年(明治30年)に石川工場は創業したが、創業当初の擂潰機の写真や記録等は残っていない。ただ、年代は不明だが、図1のような順番で石川式擂潰機は改良を行ったと記録が残っている。
図1【1】は、創業して間もなく、石川平蔵が水産試験場より魚のすり身を製造する擂潰機(すりつぶし機)の作製を依頼されたもので、臼には、臼下歯車があり、これをベベルギア(傘歯車)で(図1【1】は床があるので見えないが)回転させるようになっている。併杵が固定しているため軌跡は同心円を描く(図2(1)参照)。1909年(明治42年)に石川平蔵は「石川式擂潰機」(このころは撹拌という文言はない)という特許(特許第16981号)を出願している。この特許によると、杵は2本で鉢の直径方向に直線往復運動し、石臼が歯車によって回転している(図3参照)。また、図1【2】、【3】を見ると当初は同じ動作原理で杵が1本であったと思われる。それを2本にすることで、より精緻なすりつぶしが行うことが可能となったと考えられる。杵が1本の時の臼内の杵軌跡を図2(2)、杵が2本の時の臼内の杵軌跡を図2(3)に示す。図2(3)でオレンジ色が杵1、青色が杵2の軌跡となる。これは計算で算出したものである。正確な歯車の歯数や杵の直線往復運動の周期などが分からないので、仮定に基づいて算出した。杵が1本の場合に比べて、2本の場合は、臼内の杵軌跡がより密になり、ムラなく、均一に擂り潰しが出来ていると思われる。また、臼の回転方向と杵の自転回転方向が異なり、臼に入っている材料は杵に次々と供給され、すりつぶす効率も高くなる。ただ、現在の乳棒軌跡のようなエピサイクロイド曲線ではないので、杵の往復運動周期と臼の回転周期の選択によっては、臼内を均一な軌跡を描くことができない。実際、図2(2)の杵軌跡は対称性が崩れ、アンバランスな軌跡となっている。
図1を見ると創業当初の【1】から、カキ板(当時は掻落片と言っていた)は装着されており、臼内壁に材料が付着することは当時から課題となっていたことが伺える。
また、当時の掻落片は、ばねで臼内壁に押し付けていた。これは、臼の表面が現在と異なり粗くなっていて、押しつけないとカキ棒は臼の凹凸で弾かれて、その作用を十分に発揮できなかったためと思われる。
さらに同年に「石川式改良擂潰機」という特許(特許第17741号)を出願している。杵が直線往復運動ではなく、回転運動するものである(図4参照)。杵が2本あり、1本は杵が傾き臼の中心を通り、もう1本が偏心して、臼中心を通過しない軌跡を描く。詳細の寸法関係はわからないが、現在の石川式の乳棒(杵)が2本のタイプと同じ動きであり、現在のMR式自動乳鉢の原型となるものである。特許にも杵軌跡として、エピサイクロイド曲線が描かれている(図2(4)参照)。1911年(明治44年)には「石川式擂潰機の改良」ということで、ついに乳鉢(臼)が回転せずに、乳棒(杵)が自転公転をするタイプ(OR式)が出願された(特許第20338号)(図5参照)。これが、現在の石川式撹拌擂潰機(自動乳鉢)で最も使用頻度が高いタイプである。この乳棒が自転公転するタイプでも、乳棒の公転方向と自転方向は逆になっており、すりつぶし効率を向上させている。乳棒(杵)軌跡は、図2(4)と同等になる。この装置は図1における【7】、【8】の間に位置するのではないかと考えている。【8】はすでに現在の機種の形をしており、ほぼ完成形となる。このように石川平蔵は、明治末期から大正時代にかけて、次々と発明を行い、石川工場の技術的な礎を築いた。これにより、石川式撹拌擂潰機の動作原理はほぼ完成している。また、石川平蔵は、この特許20338号により、大正15年に全国発明表彰有功賞を受賞した。他に、日本近代産業黎明期の発展に貢献した豊田佐吉(豊田自動織機)、御木本幸吉(真珠の養殖)、池田菊苗(味の素)、本田光太郎(特殊磁性鋼)等と共に受賞している(※「大正15年全国発明表彰受賞者一覧」より)。
■創業
創業者は石川平蔵(いしかわへいぞう)である。静岡県賀茂郡仁科村で生まれた石川平蔵は 、三田四国町の西隣にあった海軍造兵廠(芝区赤羽町)から 田中製造所(のちの芝浦製作所)に勤務するようになった。石川平蔵は無類の発明家であったため、明治政府より、水産練り物向けの擂潰機の開発要請を受け、田中製造所を退職し、1897年(明治30年)に工業化の著しい三田四国町に石川工場を設立した。当時の「工場」には、「製作所」という意味があり、石川さんが設立した製作所ですから、石川工場という社名になったと言われています。当時の水産練り物は、魚の頭とひれ、内蔵は取り除くが、骨と一緒にすりつぶしており、現在のような魚の身だけをすりつぶす 機械よりも大きなトルクを必要としていた。擂り潰しの間に魚に熱が伝わらないように、石臼と木の杵先が用いられていた。石臼は熱容量が大きいため、摩擦熱が発生しても、石臼が吸熱し、すり身の温度上昇を抑制した。下の写真にあるように、蒲鉾工場では、弊社製品が多く並べられすり身を作っていたのが分かる。このように石川式撹拌擂潰機が広く世の中に認知されたことにより、石川平蔵は、1926年(大正15年)に帝国発明協会より全国発明表彰有功賞を授与した。
■乳鉢/乳棒の登場
二代目社長は石川治雄(いしかわはるお)である。石川治雄は 、蔵前にあった東京職工学校(現 東京工業大学→東京科学大学)を主席で卒業をし 、友人と共に石川工場へ就職した。この2人が、食品以外の用途に石川式撹拌擂潰機を使えないかと研究開発に没頭し、昭和初期に磁器乳鉢・磁器乳棒を用いた石川式撹拌擂潰機を発明しました。この磁器乳鉢・磁器乳棒は、理化学実験等に用いられる乳鉢と同じ成分である。耐薬品性に優れており、化学業界、電機業界等に最適な機械であると2人は強く確信した。彼らの熱意が結実し形となり、現在では、この磁器乳鉢・磁器乳棒を用いた石川式撹拌擂潰機は多くの研究開発者に支持され、主力商品となっている。
■敗戦
1945年に日本は第二次世界大戦で敗北を喫した。東京も大空襲を受けて、焼け野原になった。幸いにも、石川工場は全焼を免れ、残っていた社屋で事業を再開した。残った社屋は上の絵の大正時代から昭和初期に描かれた社屋である。会社周辺には建築用の木材が積まれて、これから復興を目指していく姿が見受けられる。
■糸川博士の石川工場での実験
1950年代になると東京大学生産技術研究所でロケットプロジェクトであるAVSA(Avionics and Supersonic Aerodynamics)研究班が結成された。糸川博士がプロジェクトリーダーである。ロケットの燃料は固体燃料を採用してどこでも飛ばせるようにしたかった。しかし、燃焼効率を向上させるには課題があった。複数の材料を混ぜ合わせる際に、より均一かつ均等に行わなければならい。そうしないと 、燃焼にばらつきが発生して、安定した推力を得ることができない。糸川博士は、より均一かつ均等にまぜ合わせることができる機械を探した。その時に出会ったのが、石川式撹拌擂潰機である。すでに 磁器乳鉢、磁器乳棒の採用がされており、火薬の撹拌擂潰にも使用することが可能であった。
糸川博士はもちろん、多くのAVSAのメンバーが足を運び、三田四国町の石川工場で材料を入れる順番、量など様々な条件を変えて、多くの実験を行った。 石川工場で撹拌擂潰された材料を持ち帰り、圧延機で押し出して、富士精密の荻窪工場内で燃焼実験を繰り返した。そしてついに、1955年、より推進力のある固体燃料の開発に成功したのである。このように魚のすり身を製造することから始まったオリジナル自動乳鉢である石川式撹拌擂潰機は、創業当時は全く想像していなかった科学分野で大きく貢献する装置へと変貌を遂げて行ったのである。
■江東区辰巳へ移転
日本は1960年代から高度経済成長期を迎えることとなる。そのなかで、三田四国町周辺にも多くの工場が建設され京浜工業地帯の中核的な役割を担うこととなる。一方、住居も増え、人工も爆発的に増加していった。1872年(明治5年)に芝区の人口は5.6万人だったが 、大正9年(1920)の第1回国勢調査時には17.9万人と約3倍に増加した。 1962年(昭和37年)には、住所表示:三田四国町2番には、1~413号まであり、 770世帯が住む大きな町となった (港区ホームページより)。
1984年には東芝本社に地上40階の東芝ビルディングが完成、さら1990年には、日本電気本社に地上43階建てNEC Super Towerが完成し、工場地帯は一気にオフィス街へと変貌していった。 製造拠点は、より郊外への移転していった。 残った工場とオフィス、住居との距離は近くなり、騒音や廃棄物が職場環境、住民生活に影響を与え始めることなってきた。大正時代から立ち続けていた石川工場社屋も周りの風景とそぐわない趣になっていった。
一方、東京の臨海部は埋め立て、および区画整理が進み、住居、商業施設、工場などが計画的に誘致されつつあった。江東区は1980年代から1990年代後半には、面積が30%も増加した。 また、都営新宿線、有楽町線、ゆりかもめ等が開通し、臨海部へのアクセスが容易となった。
そこで、石川工場は、2002年(平成14年)に港区芝三丁目(旧三田四国町)からより生産性向上と拡張性を目的として、工場により適した 立地条件、交通の利便性を考慮して、江東区辰巳(現住所:江東区辰巳1丁目1番8号)への移転を決めた。辰巳の由来は、江戸城の辰巳の方角(南東)にあるために名付けられた。 現在の深川あたりを辰巳と称していた。辰巳の歴史は意外に古く、1936年には、辰巳橋が完成し、東雲、豊洲と接続されている。その辰巳橋のたもとに新建屋を建築して、移転してきたのである。新建屋は、オリジナル自動乳鉢である石川式撹拌擂潰機の乳鉢を模した円形で、 かつ2階が吹き抜けで2階の廻りに廊下ある形となっている。 これも乳鉢の内部とフランジを模した形となっている。擂潰機の設計から製造まで一貫で対応できる機能を有している。現在もこの社屋で、オリジナル自動乳鉢の設計・製造・販売を行っている。
製造の現場で使われ、石川式撹拌擂潰機と近い働きをする機械は、「粉砕機」「撹拌機」「分散機」「混練機」など、複数存在しています。
これらの機械は、処理したい材料の硬度や粘度、粒子の大きさ、処理量の大小に応じて使い分けられています。
また、それぞれ、「粉砕=砕く」「撹拌=かき混ぜる」「分散=材料の中に粒子を散らばせる」「混練=練り合せる、混ぜ合わせる」ことを意味しますが、石川式撹拌擂潰機の最大の特徴は、これらの処理を同時に行えることです。単一の機能でなく、その全てが1台でまかなえる点にあります。
このため、処理効率は格段にアップし、別々に処理を行なうのに比べて、優れた処理結果を得られます。複数の機械を導入する必要がないため、導入コストの面でも優れています。
さらに乳棒や乳鉢を交換することで、撹拌擂潰する材料の変更にも容易に対応できるため、少量多品種での撹拌擂潰処理に適しているという特徴があります。乳棒のバネの強さや先端の形状、回転機構を変えることで、粉砕力の強弱や、撹拌性能の強弱も変更可能です。
1台の機械でさまざまなシーンに対応できるというフレキシブルな使用感が、石川式撹拌擂潰機の大きな強みなのです。
石川式撹拌擂潰機の構造と仕組みは、明治30年の創業から120年以上も変わっていません。
核となる構造は、モーターの力を伝えるシャフトと数個の歯車の組合せだけと、非常にシンプル。丈夫で長持ちし、メンテナンス性も抜群です。100年前に製造された石川式撹拌擂潰機でも修理でき、現役で使い続けることができます。
もちろん、時代に合わせて石川式撹拌擂潰機は進化しています。しかし、乳棒先端が乳鉢の底を精緻に掻き、乳鉢に投入された材料を乳棒がムラなくすり潰し、かき混ぜるという基本的な機構は、100年前から変わっていません。100年前の機械に最新の乳棒、乳鉢を取り付ける事も可能ですし、部品加工や組立手法についても、伝統として社内で継承し続けています。
100年前の機械が今でも使える理由は、私たち石川工場が、石川式撹拌擂潰機を100年前と同じ思想で丁寧に作り続けているからに他なりません。もし、これを読んでくださっている方が石川式撹拌擂潰機を導入してくださったとしたら、その石川式撹拌擂潰機は、100年後もあなたの会社で動き続けていることでしょう。
石川式撹拌擂潰機は120年前に、水産加工物の製造現場で、魚肉のすり潰しを自動化する目的で開発されました。
開発当初は木製の杵先と石臼という構成だった石川式撹拌擂潰機ですが、その後の研究により、磁器製の乳鉢と乳棒を採用した機械を開発。磁器製の乳鉢と乳棒は、学校の理科室でもおなじみの実験道具ですが、硬く、削れにくく、薬品耐性も高いという特徴があります。
また、撹拌・擂り潰し中の摩擦熱が発生しにくいため、熱による素材の変質を防げます。磁器製の乳鉢と乳棒を採用したことで、石川式撹拌擂潰機は食品以外の撹拌・擂り潰しにも使えるようになりました。
長い歴史の中で、頑丈で密閉性の高いカバーで機械の可動部や乳鉢や乳棒を覆い、素材の真空乾燥や酸化を防ぎながらの撹拌・擂り潰しをするタイプ、乳鉢を外側からお湯で満たしたカバーで覆い、素材を温めながらの撹拌・擂り潰しができるタイプなど、ラインナップは増え続けました。お客様に合わせて特注したものも含めると、その数は限りなく、無数の石川式撹拌擂潰機が、今日もあらゆる製造現場で稼働しています。
時代が進むのに合わせて、私たちが「まぜる」対象も次第に増え、今日では、電子部品材料やセラミックス材料、化粧品材料のほか、軟膏や歯科材料、人工骨材料といった医療分野にも活用していただけるようになりました。最近では、カーボンナノチューブや、全固体電池の材料、導電性のある特殊塗料など、最先端のハイテク材料の技術開発・生産工程にも活用されています。
現社長で6代目になる石川工場の歴史。石川工場はこれからも、石川式撹拌擂潰機の撹拌擂潰性能の向上を追求し続けます。私たちは今日も、産業の発展・技術の進歩を願って、撹拌擂潰の実験を繰返しながら、「撹拌擂潰=まぜる」に関する新たな発見を探求し続けています。